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なんと!オランダで作者不明だった絵画が「葛飾北斎」の作と判明した…

   


1999年、アメリカの「ライフ誌」が行ったアンケート調査「この1000年でもっとも偉大な業績を残した世界の100人」で、日本人で唯一選ばれた江戸の浮世絵師・葛飾北斎(1760-1849)。

江戸時代後期の浮世絵師。化政文化を代表する一人。代表作に『富嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家である。北斎に影響を受けた画家には、ゴッホやエドガー・ドガなどがおり、ドガは『北斎漫画』を参考にした人物像を描いています。

富嶽三十六景:神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)

★オランダの博物館所蔵で、作者不明であった6枚の絵が「北斎」の作だと分かった!

オランダで、長く作者不明とされてきた6枚の絵が、江戸時代後期の浮世絵師、葛飾北斎(1760~1849)の肉筆画であることが、同博物館の調査で分かった。

この絵画は、オランダのライデン国立民族学博物館が所蔵していた6点で、長崎を拠点に日本に西洋医学を伝えたドイツ人医師、シーボルトが持ち帰ったコレクションに含まれていました。

6枚は江戸の街並みを描いた風景画。タイトルはないが「日本橋」「両国橋」「品川」などを題材に川や人々、橋を描いている。空を大胆に取り入れた構図などに西洋画の特色が表れている。

葛飾北斎の作とわかった洋画の技法を取り入れて江戸の日本橋を描いた肉筆画(ライデン国立民族学博物館所蔵)

6点のうち5点は、和紙に、日本橋や品川など江戸の町並みが、遠近法など、浮世絵とは異なる西洋の技法を使って水彩で描かれていて、北斎が西洋の技法を理解していたことを示す資料ではないかとして注目されています。

6枚の作品は水彩画のような西洋風の描き方が特徴で、このタッチは北斎が描いたものとしては異色のものなのだそう。

★研究の結果、江戸時代に長崎の出島に来日していたドイツ人医師のシーボルトが持ち帰ったものと判明

これまで作者が分かっていませんでしたが、北斎研究で知られるライデン国立民族学博物館のマティ・フォラーシニア研究員などのチームが、シーボルトの子孫が所蔵していた目録と照らし合わせたところ、

シーボルト直筆の目録にある「北斎がわれわれ(欧州)のスタイルで描いたもの」などの記述から、6枚は北斎が描き、シーボルトの手に渡った絵であることを突き止めた。

江戸時代にオランダ商館があった長崎の出島
1634年江戸幕府の鎖国政策の一環として長崎に築造された人工島。現在は、埋め立て工事とビル建設により、出島の周囲は全て陸地になっている。

長崎のオランダ商館で働いていたシーボルトは1826年に江戸に上った際、北斎らと面会したことが分かっている。同博物館には、この6枚とは別に、北斎の肉筆画と認められた11枚が伝わっている。

江戸期の絵師たちの間には、外国人から絵を受注できるのは、長崎の出島出入り絵師として認められた川原慶賀(1786~1860)だけと認識され、ひそかに受注した場合は、落款を押さず「作者不明」として描いていたという。

★最近の研究では、出島のオランダ人たちが北斎に絵を発注していたことが、わかっている。

文政年間(1818~1830)、長崎の出島に滞在したオランダ商館長たちは、 4年ごとに行われる江戸参府の時に北斎などの絵師に肉筆の風俗画を注文し、次の参府の際に注文した作品を祖国に持ち帰っていたことがわかりました。

北斎工房
オランダ国立民族学博物館蔵

オランダ商館長の依頼を受け、北斎やその弟子たちが描いた作品も、江戸の人々の暮らしぶりが描かれています。これらの風俗画は、現在、オランダ国立民族学博物館とフランス国立図書館に所蔵されています。

北斎工房
フランス国立図書館蔵

★北斎の絵を持ち帰ったシーボルトとは

ドイツの医者。江戸時代後期の文政6 (1823) 年長崎オランダ商館の医師として来日,翌年長崎郊外鳴滝に診療所を兼ねた学塾を開き,伊東玄朴,高野長英,黒川良安ら数十名の門人に西洋医学および一般科学を教授した。

1828年に帰国する際、先発した船が難破し、積荷の多くが海中に流出して一部は日本の浜に流れ着いたが、その積荷の中に幕府禁制の日本地図があったことから問題になり、地図返却を要請されたがそれを拒否したため、出国停止処分を受けたのち国外追放処分となる(シーボルト事件)。

出典melkdo.jp

1830年、オランダに帰着する。日本で収集した文学的・民族学的コレクション5000点以上のほか,哺乳動物標本200・鳥類900・魚類750・爬虫類170・無脊椎動物標本5000以上・植物2000種・植物標本12000点を持ち帰る。

安政6年(1859年)オランダ商事会社顧問として再来日。江戸幕府の外交顧問としても働いた。文久2年(1862年)帰国。著書に『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』がある。これらの書物はペリーの来航にも影響を与えた。

★このニュースには、ネットでも「北斎スゴイ」の声が!

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